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2025年7月4日金曜日

母に捧げるレクリエム

 早いもので母が亡くなってから2年が経とうとしている。

昨年の一周忌は午後から赤穂のお寺での法要の後で、海岸近くの赤穂ハイツで会食を行った。

集まったのは子ども家族と一人の母の甥だけだった。

孫のお嫁さんが出産間近だったのでひ孫はひとりだけ来られなかったが、子ども夫婦や孫、ひ孫まで賑やかな会食となった。

今年の三回忌は午前中に同じ寺で法要をして、午後から去年と同じところで会食をすることになっていた。

本当は、会食しているときにカラオケがしたかった。

三回忌の法事にカラオケとは不謹慎に思うかもしれないが、母は歌が大好きで子どもの頃は歌手になるのを夢見ていた。

盆や正月になって子どもの家族が集まってくると、カラオケに行ってみんなで楽しむのが恒例だった。

今回の三回忌が終わると、次の七回忌まで今回のメンバーで集まることは無いだろう、そして次に集まるときには全員そろうことはまず無いと思った。

今回も大阪万博があったから、その観覧をかねて遠く東京から孫家族が来てくれた。

母の子ども夫婦と孫、ひ孫が全員集まることができる最後のチャンスと思ったので、母が好きだった歌をみんなで歌って偲ぼうと思った。

ただ、幼いひ孫の一人が大きな音が苦手だという理由で当初は無理だと言われたのだが、次男が母に対する思いを汲んでくれて賛成してくれた。

次男は遠く神奈川県の葉山から自家用車でドライブ旅行をかねて2泊3日でいつもやって来る。

当日は、早く帰らねばならないので会食後すぐに別の部屋を設定してもらうことに決めていた。


どこか部屋の一室を貸してもらえるのかと思ったら、海が一望できる展望ラウンジを使うことになった。

非常に眺めが良いのだが、他のお客さんは自由に入ることができるので、関係者以外に聴かせることにもなった。

私の家族は仕事があったり、カラオケが苦手だったりしたので、私以外は会食後には帰ってしまった。

大きな音が苦手なひ孫と両親は参加するのを危ぶまれていたが、ラウンジが広かったので距離が保たれて参加できた。

葉山まで帰る次男の弟が先鞭をつけた。

曲は西城秀樹の「ブルースカイブルー」だった。


  青空よ 心を伝えてよ
  悲しみは余りにも大きい
  青空よ 遠い人に伝えて
  さよならと

三回忌に相応しい歌を歌ってくれた。
おそらく、弟がこの曲を歌うのを初めて聴いたので、母の法事のために選んで練習していたのだろうと思う。
次に私はYou Raise me upの歌を母への感謝の意味を込めて歌った。

 I am strong   When I am on your shoulders You raise me up to more than I can be
  貴方の肩に身を預け 私は強くなれる   今以上の私に貴方が私を高めてくれる

あの世にいる母がこれからもきっと私に力を貸してくれると信じて歌った。


幼いひ孫たちが歌える歌をその母親(私の姪)が、エントリーしてくれた。
なつかしい「かもめの水兵さん」だった。
海が見えるラウンジなのでぴったりの歌で、幼くておしゃめなひ孫のかわいい声を聴くことができた。
大人の懐かしい歌と、子どもの童謡をまじえながらのカラオケは楽しいものとなった。
何よりも感動したのは、一番末の弟の若い娘のすばらしい声を聴くことができたことだ。

私にとって姪になるそのKちゃんは、どちらかというとおとなしくて、人とうまく関わることが苦手な子だった。
今は、神戸の方で一人暮らしをしながら、障害を持った児童の施設に勤務している。
その弟家族は両親の近くに住んでいたので、私の父母との関わりも深かった。
特に父はKちゃんをかわいがり、畑からの帰りに作物を届けることを理由にしてよく立ち寄っていたという。
彼女は最初、歌うのを嫌がって冗談半分で「なんぼくれる」と言って断ろうとしたので、「千円やるから、歌って」と私が追い込んだ。
そこで、彼女は一番得意なSuperflyの「愛をこめて花束」を熱唱してくれた。
私は感激のあまり、彼女に握手を求めた。
そして、本人は断りはしたが約束通り千円手渡した。
1万円あげても良いような歌だった。
今回の法事で私にとって一番の収穫は、彼女の歌を初めて聴くことができたことだと思った。

もう二度と、こんな風にみんなと一緒に歌う機会はないかもしれない。
亡き母が法事として与えてくれた素晴らしい時間を過ごすことができた。
できたら、Kちゃんの結婚に際してこういう機会ができたらとも思う。
本当は、私の娘の時もこういう場を設けたかったのだが、コロナの余波でできなかった。
母はひ孫の誕生を心待ちにしていたが、やはりコロナの影響で実際に会うことはできなかった。
私ら夫婦や末の弟夫婦以外は、認知症を患って尊厳を失ってしまった母を知らないから、元気で歌っていた頃を思い出してくれただろう。
私は幼い子どもが帰って行っていなくなってから、残った兄弟らと母を偲んで「愛燦々」を歌ったのだが、なぜか涙が止まらなかった。
きっと、私を通して母が喜びの涙を流していたのだろうと思う。





 









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