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2025年7月26日土曜日

一人籠もり暮らしの落とし穴

 私は朝五時に起きて農作業をしているが、その時に時計代わりにHNKラジオの「マイあさ」を聴いている。

ラジオの良いところは聴いている人がいろいろと投書して、意見や気持ちを公開して意見交換できることだ。

そんな中で、「高齢者は健康のために外出して人と関わった方が良いと言うが、自分にとってそれは却って苦痛だ」という投書に反響があった。

自分もそうだという意見が多かったことが今の時代を反映していると思った。

この話題では心当たりがあるので考えさせられた。

私のよく知っている知り合いのMさんから、引き籠もってしまった一人暮らしの母親に苦労した話を聞いていたからだ。

かつてそのMさんの母親はコロナの影響で外に出られなくなった。

それまでは非常に外に出て人と関わりを持つのが好きな人だった。

ところがコロナが収束しても家に閉じこもるようになってしまった。

娘であるMさんと週に一度買い物する以外はほとんど家を出ることもなく、髪も伸び放題になって浮浪者のようになってしまった。

いくらMさんが美容院に行くように話しても言うことを聞かない、理由は美容院であれこれ聞かれて話をするのが嫌だと言うことだった。

認知症の症状も出て自分の身の回りのこともできなくなったきたので、Mさんは介護認定を受けさせようとしたが、自分は大丈夫だと頑として受け付けなかった。

その一方で、食欲も落ちて体重も減ってしまったのだが、意外と病気にはならなかった。

Mさんはこうなったら、病気で入院しないと改められないと腹を括ったそうだ。


その日はまもなくやって来た、昨年の夏に風邪をこじらせて肺炎になってしまった。

暑いのに自分は暑くないからとエアコンもつけずに暮らすことが多かったので、体力が落ちてしまっていたのだろうという。

Mさんは救急車を呼んで病院に連れて行こうとしたときにも、病院に行くことに抵抗して救急隊員を手こずらせたそうだ。

入院したお陰で、介護認定もできて2級と判定されたし髪も短く切ることができて、家にいるよりずいぶん安心できたという。

病気の方もは回復していったが、認知症の方がますます進んでいってしまった。

一人暮らしができる状態ではなかったのだが、退院して家に帰りたいとずっと言っていたそうだ。


肺炎の方は回復したので、認知症に関わる専門の病院に転院するときにには大変なことだったという。

入院先の病院の受付で大騒ぎになって、数人かかって看護師さんが何とか本人を入院させてくれた。

それからはMさんは病院に支払い等の用事で行っても、本人と面会がしづらくなってしまった。

面会すると騒動を起こす可能性があったからだ。

ただ、亡くなる一週間前に本人の妹とMさんは面会に行くことができた。

その時は元気そうだったし、妹さんは看護師でありその見立てもしばらくは大丈夫と言うことだった。

ところが一週間後の朝に突然危篤の電話があって、Mさん夫婦は駆けつけたが間に合わなかった。

昨年の八月に入院して亡くなったのは今年の七月で一年も持たなかった。

歳は90歳ほどなので決して若かったわけではないが、コロナ以来の周りとの関わり方に悔いが残った。

本人の息子夫婦とも一度会っただけだし、孫とも一度も会っていなかった。


もし、コロナで家に引き籠もらなかったこんなことにはなっていなかっただろうが、問題はMさんの母親が娘の言うことを全く聞かなかったことにある。

確かに家に一人でいて気楽に暮らすことの方が健康な人もいるだろう。

そういう人を無理に連れ出す必要はないと思うが、はたして本当に大丈夫なのだろうか。

私の近親者はずっと引き籠もって最近は一人暮らしだったのだが、この五月に70歳の若さでなくなってしまった。

急なことで亡くなっているのが発見されたのは二日後だった。

まだ発見が早かったのは弁当を毎日業者に届けてもらっていたからだ。

一度、入院したことがあったが、その時の病院暮らしに懲りて、足の具合などが悪くても入院治療を行おうとはしなかった。

連絡を受けて対応したのはその人の弟だったが、救急車や警察が駆けつけて大変な騒動になってしまったようだ。


一人籠もり暮らしは確かに誰にも迷惑をかけなければ問題ないとは思うが、自分がもし亡くなったときのことを考えているかと言うことだ。

Mさんの母は娘さんが定期的に訪ねていることで孤独死は真逃れた。

しかし、終活を行っていなかったので、残された親族で家を片付けるのは大変で、結局は業者に高額な費用を払って大半をやってもらわねばならなかった。

そして、年金などをしっかり貯金していたので、親族への金銭的な負担も無く、遠くに住む跡取りの息子夫婦に多くの金銭を残すことができた。

一人籠もり暮らしを自ら望んでする人は、万一に備えて終活を行っておく必要があるだろう。

高齢者が新たにアパートなどを借りることができないのがこういう孤独死との関連だという。

もし、貯金が無い場合は周りに大変な迷惑と負担を強いることになる。

お一人様で気楽に暮らす人は自分の死に対する覚悟と周りへの配慮は欠かせないと思う。


かつて奄美の与路島では、感染症の病気になって覚悟を決めたときには、自ら海岸のアダンの林の中で死を迎えたという。

京都でも古くは亡くなる前に墓場に持って行かれていたことは有名である。

姥捨て山の伝説は至る所にあるが、実際は覚悟を決めて出小屋などでひっそり暮らして死を迎えるのが多かったようだ。

「死」や「老い」は周りに迷惑をかけるものだから、覚悟せねばならない貧しい時代もあった。

近代以前は亡くなった人の遺物は川に流してそれを拾って活用する人もいたほど貧しい地域もあった。

だから、与路島では死に行く人に家を貸しても、産婦には家を貸すなと言われた。

今の時代は死者の持ち物を当てにする人などいない、遺物の片付けに労力と金銭がかなり必要となる。

周りのアドバイスや子どもの言うことを聞かないのであれば、それなりの覚悟と準備が必要だということだ。

おそらく、ラジオに投書した人は覚悟と準備ができているとは思う。

しかし、現実にはそういう覚悟と準備ができていないまま一人籠もり暮らしをする人が多くいることも事実だと思う。

近年は若い人でも孤独死を考えて、ネットなどで業者に依頼して対策を行っている人もいるという。

一人籠もり暮らしを正当化することができるのは覚悟と準備ができている人で、お一人様と気楽に言えるのは資産を多く持っている人だけだろう。

また、そのお一人様は決して家に籠もるような危険を冒してはいないように思える。




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