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2025年7月7日月曜日

神たる子ども

 私は日本本土や琉球でよく7歳までの子どもはカミという古来の信仰は、医療が発達して無くて死んでしまうことが多いからという理由で捉えていた。

確かにそう思っていないと、子どもの死を受け入れられないし、死んでもすぐに生まれ変わるということで気持ちが安らぐ。

死産児や生まれてまもなく死んだ子どもは、普通は葬式をしたり墓に入れたりしなかった。

奄美などは古くは家の軒下に埋めることによって、母胎にまた生まれ変わるとされた。


一方、貧しい親にとっては望まぬ子どもを間引くのに気休めとなっていたようだ。

自分たちと同じ人として殺してしまうことは、罪の意識を背負うことになる。

カミとしてあの世に帰ってもらうと思った方が気が楽になるだろう。

現代でも流産したりや堕胎が行われた時にも、水子の霊として別格に扱うのもそれに近いのだろうと思う。

ともかく、近代化される前は子どもは死と隣り合わせであったが故に、神霊的な存在と思われていたと解釈していた。


しかし、このごろ私はこの解釈で見過ごされていた意味を見いだしている。

子どもは親にとってもその祖父母や親族にとっても、生きがいとなる大切な存在である。

子どもを育てるために必死に働き、その成長で癒やされていく。

場合によって子どものためなら死んでも良いとさえ思う。

これはヒトだけでなく、多くの動物に共通する気持ちだろう。

育児は母親を中心に行われるが、ヒトは特に父親や祖父母、親戚だけでなく、地域の住民も関わっていく。

江戸時代では捨て子も必ず地域の住民が育てるものだった。

御利益を得るカミ様や崇拝する宗教の信仰心とは違って、自然に生まれてくる心情である。

それこそ、子どもは神様となぞられる理由でもあろう。


子どもがどうしてもできない夫婦でも、養子縁組をして子育てはできる。

子どもは老後の面倒を見てくれることを期待するよりも、子育てを通しての生きがいを目的としてできるものだ。

職場で知り合った人の中には、乳児院から引き取った子どもを養子として二人も育てている人がいる。

その人は夫婦に子どもができなかったことから、夫婦の共通の生きがいとして育てていると聞いた。

私の身内には子どもができなかったり、つくらない夫婦もいるが、子育てそのものに関心が薄くて仕事を生きがいにしてしまっている。

現代では金銭を得る仕事が子どもに代わる神様になっているのかもしれない。

なぜなら、金銭こそ欲望を満たしてくれるし、一番将来を保障してくれていると信じているからだ。

私は老いた世代で高級車に乗って羽振りのいい人を見ても羨ましいとは思わない。

本当に羨ましいと思うのは、軽自動車の助手席に可愛い孫を乗せて走っているおじいさんを見かけたときだ。

金銭を誇る人に魅力は感じないし、却って不安を感じる。

それは自然災害や戦争だけで無く、健康を害したり老いてしまったときに、金銭が単なる幻想だった気がつくことが分かっているからだ。

私の近しい人に、病気で入院したら個室に入るので倹約してお金を多く貯めた人がいるが、結局入院しても個室に入らず多額の貯金を残して亡くなった人がいる。

その多額の貯金はその人の面倒をほとんど見ず、自分は子育てもしなかった息子に渡ることとなってている。


少子化の問題は、子育ての親の負担の問題として解決しようとしている。

しかし、金銭を得る仕事を絶対的な神様のように信仰している人にとって、子どもはたいした価値も無いだろう。

国家は学校教育や政策によってそういう人材をも多く育成してきた。

そして、現代の文明や文化が讃えてきたのは偉業をなした英雄であり、貧しくても子育てを懸命に行ってきた人ではない。

人類の幸福を生むとした開発や発展が却って環境を破壊し、子どもの未来を奪ってきている。

今の時代こそ子どもは我々に必要な神様として、その存在に関わる環境問題にも取り組まねばならないと思う。

狂った政治屋が世界を軍事力や経済力で支配しようとする今こそ、子どもの未来を中心に据えねばならないと思う。

宗教やイデオロギーを超えて、必要とされる生きとし生けるものの姿勢だと思う。




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