約束の半年が過ぎてもちゃんとした仕事が見つからないでいる。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
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