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2017年11月13日月曜日

備前のしっぽ福浦

以前このブログの「越境のAKB」で紹介したように、私の母方の祖父母は備前福河の福浦に生まれ育った。
因みに備前福河は福浦村と寒河(そうご)村の総称で、現在も駅名に使われている。
私は祖母に連れられて、当時は天和の方から山道を通って歩いて行った。
戦死した祖父の実家はその山道から降りた所にあり、古い家には長槍が飾ってあったのを覚えている。
現在はその家も取り壊されて、井戸だけが残っているという。
山の中腹にある墓参りに行くと、自然石がいくつか並べてあり、今から思うと子供を土葬した目印であったのかもしれない。
子供心に自然石だけの墓というのは、何となく哀れに思えた。

福浦には何度か祖母や母親と一緒に行った。
祖母の実家は港の近くにある入電という地区にあった。
こちらもずいぶん古い家で、便所が外の庭にあった。
祖父の方は船大工、祖母の方も船の運送関係だったようだった。
農地の少ない場所なので、海に関わる仕事が主だったのだろう。
それは私が生まれた鳥撫も同じである。
先日、私が作っている赤穂の畑のお隣さんが、福浦出身の人で祖父母の実家のことの話をした。
懐かしくなって、この日曜に軽トラで自転車を運んで、村の中や海岸を自転車で散策した。
これまでに思い出したように訪ねた場所だが、大きく様変わりしている。
最初の案内板に「龍神の里」の文字があった。
祖母から港の海から龍が出てきた昔話を聞かされていたのでそれだと思った。
地図で調べると、龍神宮という神社もある。
大きな堤防ができているので、龍などはもう出てきそうにない。
天和の方に向かう海岸線の一部は、昔のまま残っていた(上の写真)。
祖母に連れられて、兄弟で海水浴をした覚えがある。
その時に、祖母は親戚の人から、墓の守をちゃんとしないと責められて、泣いていたことを思い出す。
たぶん、戦死した祖父の墓がまだきちっとできていなかったからかもしれない。
祖父の墓は赤穂の高山墓地に今はあるが、先の尖った神道式の墓ではない。
祖母の意向で小さな墓にしており、戦死者とは分からない。
その反対方向の古池という所まで自転車に乗っていった。
この古池という村は、赤穂市の最も西の地区である。
以前勤めていた学校の玄関に、この古池の塩田跡の絵が飾られていたので、行ってみたいと思っていた。
長い海岸線沿いの道は、それほど起伏は無いが路面はあまり良くない。
ひょっとしたら寒河まで道が通じているかと思ったが、海岸線では無くて山道だった。
塩田跡(上の写真)が本当に残っていて、鴨たちがおおらかに泳いでいた。
赤穂で言えば今から40年以上前の風景である。
そのまま残っていると言うことは、開発できなかったと言うことである。
どん詰まりの港で、持ってきた家内の作ったサンドイッチを食べたりして、ゆっくりと過ごした。
鹿久居島もすぐそばに見えて、来年の夏はSUPをここでやろうと思った。
実はその対岸に見える鹿久居島の海岸には、何度かモーターボートで連れて行ってもらったことがある。
赤穂御崎のように観光化は全くされていないからこそ、昔ながらの風情を残す落ち着いた場所だった。
備前のしっぽである福浦の海は、私が海育ちであることを思い出させてくれた。

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