一般に姫路城と言えば、天守閣付近のいわゆる内曲輪を指していると思う。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
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